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安東流 「東京ノーヴィ」舞台鑑賞法

その1「曽根崎心中」徳様二態

毎年、冬から春・初夏(12~5月)にかけて同じ演目を複数キャストで、連続上演をくり返す「東京ノーヴィレパートリーシアター」。

3月22日の「曽根崎心中」では、キャストの違いによる面白さを痛感した。
この日の徳さまは、「かもめ」「ハムレット」「桜の園」でも、苦悩する多感なインテリ青年を演じるk氏。

それぞれの役も、本人ももちろんそれぞれ別ものであるのは確かだが、やはり重ねたり比べたりして観てしまう。
邪道かも知れないが、楽しみの一つでもある。
 「心中」というと、どうしても、この世では結ばれぬ二人が、愛ゆえに互いに手を取り合い命を絶つという、甘いセレナーデを連想する。
そして、これまで見てきた徳さま(仮に「S徳さま」としよう)は、確かにそうした、お初への慈しみ、愛情と優しさに満ちていた。
いかにも人のよさそうなS徳様は、それゆえに信じた友に裏切られ、この世でただ一人、お初だけに
救いを求める悲劇となっていた。

しかし、この日の「k徳さま」は、もちろん、お初に対する愛情はあるのだが、ややクールで、むしろ、これまで信じてきたものに裏切られ、これまで大切に築いてきたものを失い、生きる方途を失った末に、死を選ぶしかない、「弱い善人」の悲劇性を強く感じさせるものになっていたように思えた。

死の理由が、失われた未来への絶望と、無力な己への失意であり、むしろお初との情愛よりもその方が勝っているかのような、クールな孤独感が漂う。
そして、お初は、そんな徳兵衛に潔い死を勧め、自らもそれに殉ずるという「無償の献身」としての殉死を選ぶ崇高な姿として観ることが出来た。
徳様がクールであればあるほど、逆にその徳様を追おうとするお初のいじらしいまでの自己犠牲(「天使性」)も増して、その姿は一層輝いて見える。
そして、全体の悲劇性もより高まるものとなるように・・・

男は家や義に准じ、女は恋に殉じる、そうした時代の悲劇と、個人の尊厳とのせめぎ合いの厳しさ、その中での愛と喜怒哀楽を痛感したこの日の舞台であった。
もちろん優しさに満ちた温かみのある徳さまも、クールに苦悩する徳さまも、どちらもそれぞれに生きた人間としてある。
優劣や比較ではなく、どちらも一理あって、おのおのの味わいがあるそれは確かなこととして、ある。

ここでは二者をとりあげているが、ノーヴィには三人の徳兵衛役者がいる。三人三様にそれぞれの演じ方もあり、それによって舞台も変わる。
お初も複数キャストだから様々な組み合わせで、同じ作品でも違う色合いが出る。こうした見方ができるのもノーヴィの楽しみの一つである。

更に言えば、もちろんこれも邪道であるが、同じ出演者が演じる他のノーヴィ作品、たとえば、「かもめ」のコースチャ、トレープレフは、ニーナを失い、失意のうちに、死ぬ。「ワーニャおじさん」は、失意で銃や薬まで手にしながらも、ソーニャの言葉に慰められて生きる。

 Ifは、ありえないことだが、もしも、コースチャの傍に、ソーニャが居たなら、別の人生を彼は生き続けていられたであろうか、もし、ワーニャの傍に、お初が居たなら、幸福感に満たされてながら死んだろうか?故郷に残していく父母を思い悲嘆にくれながらも、愛する人とともに死ねる喜びにときめくお初
の一瞬の歓喜と、永い永い忍耐の時を生き続ける決意をしたソーニャと、いづれが「ほんとうの幸い」なのだろうか。
妹に先立たれたケンジ、無二の親友を見送ったジョバンニ、オフィーリアを欺き、失ってしまったハムレット。
誰もが生と死の境をさまよいながら、それぞれの連れ合いとともに、それぞれの幸いを求めて模索している。そして、全身をこめて恋する者たちの姿は、いづれも潔く、気高く美しい。
生と死、愛と孤独は、いつの時代、どんな境遇でも、誰にも共通して襲いかかる人生最大の課題である。

時代と作品世界を越えて直接に迫ってくる作品の選択と、その表現、それぞれの生きざま、そしてそれを目前に展開してくれるノーヴィのリアルな舞台に、つくりものであることを忘れて現実を観る瞬間、舞台の、演劇の魔につかれたことの幸いを、そして身近に繰り返しそれを体感できる喜びを感じる、「ノーヴィ・シーズン」である。くしくもこの時期は、物理的な「収穫の秋・貯蓄の冬」の半年とは、逆の時期。
農閑期の秋から冬の間に稽古され準備されたものたちが、雪解けとともに溢れて流れ出す、芸術の実りの時、開花シーズンでもあるようだ。
舞台だけでなく、トークやシンポジウムなど広範な文化芸術の活動が続く、これもまた、広域組織団体・ノーヴィならではの楽しみである。

この日のトークは近松研究者の神津武男氏。実地に浄瑠璃本を採掘して全国各地を行脚する苦心苦労と歓喜と、そしてお人柄が伝わる、古典研究者らしい、他では滅多に聞けない本音のトークが大変面白く勉強になった。

欠陥だらけ傷だらけ、それゆえにこそ愛すべき人物たち

モスクワ芸術座のワーニャ2
mosukuwa
mosukuwa
モスクワ芸術座のワーニャ2
モスクワ芸術座のワーニャ
☆3月14日「ワーニャ伯父さん」
 (東京ノーヴィ・レパートリーシアター)
<写真はモスクワ芸術座による上演舞台>

 最もチェーホフらしく思えて、個人的には一番大好きな「ワーニャ」は、それにもかかわらず、どうやら、最も上演されることの少ない作品でもあるようだ。「にもかかわらず」というべきか、あるいは、「それゆえにこそ」というべきなのだろうか。
 だから、ノーヴィ(東京ノーヴィ・レパートリーシアター)の連続定期上演は、非常にありがたく、2007年の初見以来、ずっと見続けて来ている。

キャスティングも当時から変わらず、極めて安定したアンサンブルを保っていて、最も「ノーヴィらしい」作品に仕上げられているように思う。

他劇団の上演が少なくて、比較しようがないからではない。
この種の作品を出し続ける事、それ自体に貴重な価値があり、ノーヴィならでは姿勢が貫かれている良さがあることは、確かに一つ言えることではあるが、そういう外側だけの事に留まらない。
作品の捉え方、表現方法に、この劇団の真価が発揮されているように思う。

冒頭に「最もチェホフらしい」「最愛の作品」と述べた私見は、誠に独断で偏見かも知れないが、言わば全ての論は、初めは全て独断で偏見であろう、賛同者を得られるまでは。
昨今の、チェホフばやりの世間の風潮の中でのこの作品の位置、そして「ノーヴィ」のありようについて、更に独断を進めてみたい。

 この作品「ワーニャ伯父さん」は、チェホフ戯曲には珍しく個人名をタイトルにしている。が、他の作品同様、誰か一人が特に主役ということもなく、個性豊かなウゾウムゾウのキャラクターが、それぞれ複雑に絡み合いながら物語を彩なしていく「人間悲喜劇」である。

(その一方で農奴制解放や土地所有、経済や開発などの社会的歴史的背景も見事に書き込まれている「社会劇」としても成立しているのではあるが)むしろ、誰か一人が主役である意味合いは、むしろ他に比べて薄い、「アンサンブル群像劇」といった方がいいかもしれない。(この作の前身は「森の精」でアーストロフの方がメインで、ワーニャが脇だった。)
むしろワーニャ自身は、愚痴、ぼやき、つっかかり、思い人は奪われ、失望し、あげくはピストルを取り出すが、当たらず、絶望、自暴自棄、果ては服毒しようとして、姪のソーニャやアーストロフに止められてしまう、誠に不甲斐なく平凡で通俗である種、滑稽な程の、およそ物語の主人公になりそうもない、情けない無力な存在として描かれている。
しかし、だからこそ、彼は、そしてこの物語は、少なくとも私を、魅了してやなまい魅力に溢れているのだ。

 「アンチ・ヒロイズム」と言えるかもしれない。
「かもめ」では、才能ありながら若き命を散らす悲劇の作家コースチャ(トレープレフ)や、不屈の真実に目覚めた女優・ニーナや、名声の中で苦悩するトリゴーリンやアルカージナたちが、それぞれのヒロイズムを誇り高く謳い上げながら観客を魅了し、それを演じるスター俳優や商業演劇の演出家や興業主をも満足させ、作者チェホフの名声を百年後の今日、大陸の果てにある島国の大劇場の最後列客席まで、鳴り響かせている。

「三人姉妹」「桜の園」もしかり、それぞれに素敵なヒロイン、ヒーロー達の見事な見せ場が用意されていて、演じる者、観るものに演劇的エクスタシーを与えてくれる。
特にチェーホフの場合、若い娘・ヒロインが魅力に溢れ、そのみずみずしい生命感の躍動が、暗く重いテーマに救いをもたらす。
 ところが、この「ワーニャ」では、ことさらに、「不器量な」、と、自ら繰り返し強調する、姪っ子のソーニャ、そしてその一方には、美しいがそれだけで他に何もない、添え物のような義母エレーナ、あとは本の虫で、教授の盲目的信奉者の大伯母ママン(マリア)と、信心深いばあや、これが、この物語の
女性陣だ。
対する男性陣もそれぞれに、どこか傷持つ、欠陥だらけの、平凡で通俗で、観ていてイライラするほどの、それゆえに、愛すべき、愛してやまないではいられない人物達なのだ。
誰もが満たされず、言いたいことも言えず、言ったとしても、思いは届かずにすれ違い、伸ばした手は空をつかみ、空振りとなり、それでも尚、生きていく、終わりのない、解決のないドラマ、さいごにソニャが言う、「それでも生きていきましょう」と、終わりのないドラマ。
いや、これはもうドラマではなく、現実そのものでしょう。
このなんともやりきれない、やるせなさ、混沌として、空しく、誰も救われず満たされない、それが実際の人生でしょう。
これがこの時代のロシアの片田舎の現実そのものだったのです、とチェーホフが解説してくれているかのような。

「かもめ」では、ただ一人、解脱して飛翔するニーナ自身の救済と、その救済に預かれずに一人取り残され、自ら銃殺というはっきりした結末でピリオドを打つコースチャの明確な二分された悲劇が鮮明に描き出されるが、その直後に書かれた(書き直された「森の精」)この作品では、若く
しいニーナならぬ、不器量でモテないソーニャが、絶望し自殺しようとした冴えない中年男ワーニャに、繰り返し繰り返し畳みかけるように、忍従を希望を語りかける「終わりなきラスト」でもって全体を締めくくり、あたかも、チェーホフが、前作「かもめ」では自ら殺してしまった分身コースチャ(トレープレフ)を、どうかして生き延びさせ、働かせ、この世を支え続けるか、という課題に取り組んだ、その成果を見せてくれるかのように感じるのは、私だけだろうか。

 確かにこの劇は、重く暗く沈滞し、息苦しく時に滑稽で救いのない、淀みに満ちている。何度も中のセリフにあるように、低俗、通俗、倦怠で薄汚れている。だからこそ、ソーニャの、何気ない、ごくありふれた平明単純な一言が、そのリフレイン、繰り返しがこんなにも心に響いて来るのではないか。ばあやや、ワッフルたち、他の劇では登場さえもしない、でも当時確実に居て、世界を支えていた名もなきごく普通の人々の何気ない一言が、心に沁みてくるように思えるのではないか。
心なら
ずも息子ジャン(ワーニャ)を叩いてしまうママン(マリヤ)や、邪けんに小突かれながらも言わずにいられないワッフル、自らを俗物とは全く自覚していない教授・・・それぞれ、その時その場の「小ささ」までもが、極めて愛おしいまでに、心に突き刺さる、これはそういうドラマなのである。

 そのドラマを出し続けているノーヴィ、そして、それぞれの役々を、誠にリアルに丁寧に「小さく」(無駄に誇張せずに)等身大に描いて見せてくれる俳優たちと、演出家とに、限りない拍手をささげたいと思います。

この後、末永く、この作品が上演され続くことを、この劇団と日本演劇界のために、そして何より私自身の演劇的欲求のために祈ります。

 四人の老人たち、二人の中年、若い二人の女性と下僕、とりわけ、老人たちは、他のチェホフ劇でもそうですが、極めて重要で難しい役どころ。
ノーヴィでは比較的若い俳優さん達が実年齢との差を越えて、実にきめ細かく丁寧でリアル。男優・女優陣も、ともに、それぞれ型にはまることなく、のびのびと自由に優雅に役を生きていて、それぞれに所を得てアンサンブルを醸し出しています。
とりわけ、やや冗長な前半から、幕間を挟んで、後半のクライマックスからラストへなだれ込む流れが
見事で、ペース配分の妙、なのでしょうか?
今期は、比較的少ないのが残念で、もっと回を重ねれば、更に隙間のない充実したものになるでしょうと、それだけが、ただひたすら残念です。

もちろん、新作ハムレットはじめ、日本の晩御飯などバラエティ豊かな作品群を、この期間この俳優陣で回している奇跡の偉業への敬意も含めての敢えて、です。     

<安東 千枝穂>
                  
   ~下北沢・東京 ノーヴイ・レパートリーシアター~
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