スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

アーカイブス「銀河鉄道の夜」の奇跡2008年

★安東のアーカイブス

「奇跡のノ-ヴィ」・・・・
   5/2 「銀河鉄道の夜」 観劇私見

「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」
「だっておっ母さんも行ってらっしゃるしそれに神さまが仰っしゃるんだわ。」
「そんな神さまうその神さまだい。」
「あなたの神さまうその神さまよ。」
「そうじゃないよ。」
「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑いながら云いました。
「ぼくほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんとうのたった一人の神さまです。」
「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです。」
「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの神さまの前にわたくしたちとお会いになることを祈ります。」青年はつつましく両手を組みました。女の子もちょうどその通りにしました。みんなほんとうに別れが惜しそうでその顔いろも少し青ざめて見えました。ジョバンニはあぶなく声をあげて泣き出そうとしました。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

「見る度に新しい、見る毎に発見がある」
と言うのは決して、単なる美辞麗句でも誇張でもない、そんな実感を得た。

第四シ-ズンから新たなレパ-トリ-となった
「銀河鉄道の夜」。

初めは、素朴なロマン漂う味わいに満ちた影絵の夜汽車や、祭の夜の燈籠流し、
一人ぼっちの芒の原の象形から一転して、不規則に揺れて明滅する室内の
いかにも走る夜汽車らしい動きなど、鏤められたイルミネ-ション的な演出効果の
醸し出すファンタジックなム-ドと、不思議な出会いの心時めく旅の果てに、
遂には永久に離れ離れとなる友との別れの哀しさ、
叙情的で美しく切ないナレ-ションと、
少年達や大人達の役を生きるキャストの透明感溢れるひたむきさに、
ひたすら涙するだけだった。

だが、二度三度と繰り返して、違うキャストも交えて、回を重ねて観る内に
少しづつ見えて来たのは、ケンジの原作の深さと
それをそのままに、更に増幅して伝えようとするノ-ヴィの透徹した芝居作りの、真摯な思いでした。

何が、どうなるか、最初のドキドキ感は、回を重ねると薄れるその代わりに、
今度は、ドラマの本質に目がいくようになる。
アクセサリ-やデコレ-ションでなく、素顔が見えてくるんです。

パシフィックで難破した船の子供達との束の間の賑わいの後で交わされる冒頭の会話、それがはっきりと響いて聞こえて来るようになったのは、多分、もう5回目を過ぎた辺りからだったでしょうか。
それまで何度も同じ場面を観てきた筈なのに、きちんと観たつもりが、ある時、ふと、その会話の重さに気づいて、はっと驚きました。
その少し前には、急勾配を上り下るスペクタクルがあり、その後には、
白衣の神様へ向かう壮麗な場面がある、その間に挟み込まれた短い会話ですが
これは、重い。神学論争、宗教問答、哲学談義の重さです。

驚いて、後で原作を読み返したら、そっくりそのままのセリフなので尚、びっくり。
原作を読んだ時も、読み過ごしていたようです。そして原作はさりげなく、
それでも舞台では、何とも言えぬ苦悩を、少年ジョバンニは、どうしようもなく
やるせない煩悶に、言葉を噛み締める様がとても、心に響きました。

「お子様向けファンタジ-」と思われがちなこの作品に、
こんなに高い次元の会話が盛り込まれている、これは作者ケンジが常に己自身に
問い続け、その作品群の随所に盛り込まれた苦悩ですが、その事自体、文学史上、
希有な、そして素晴らしい事なのですが、その場面そのものをそのままに、そして
更に強調し深めた形で上演する、これこそ東京ノ-ヴィレパ-トリ-シアタ-の真骨頂
の一つの表れといっていいでしょう。
 これまで幾多の劇団が上演した中で、この会話の部分を、改変もカットもなしに、そのまま上演した例は、まずなかったのでは?と思えるような場面です。
これをそのままやり通したその勇気と知性に驚嘆します。通常は、もっと大衆的に、子供にも分かり易く、受け入れやすくするという理由で、表現が緩められたりするのが大方の所です。むしろこの原作の部分をどうするかで、その作品づくりの姿勢がわかるといっても良いかも知れません。
そういう意味では、そのまま原作通りに、しかも深めて表現したノ-ヴィのやり方は、これはある意味で「奇跡」です。ここをどう表現を変えるか、変える事でどれだけの観客を拡大できるか天秤にかける、あるいはかけざるを得ない(と思っている)制作者・演出家にとって、これをこのままやるという発想自体が、驚嘆すべきものだと思います。
 商業演劇、児童演劇、大衆劇というジャンルに携わる人々は、それぞれの頭二文字に反するものとして、この会話の難解さ、高度さ、ラジカルさ、問題意識を、実に困ったものだと扱いあぐねているのではないでしょうか。なんとかこのままでなしに、その思いをもっとわかりやすく、平安に伝えるすべはないだろうかと。このままではむずかし過ぎる、なんとかしなければ、と。それは一つのある種の良心として。
 しかしおそらく、原作者ケンジは、この会話にこそ拘わり、この表現にこそ命を賭けていたのではないでしょうか。ここを緩めたら、この不思議なそして難解なこの物語にこめた謎は、永遠に解けないままになるのではないでしょうか。何故、ジョバンニだけが一人でいかなければならないのか。何故彼だけが、この世から離れて行く人々と最後の旅をしたのか、何故彼だけが、どこまでも行けるキップを手にしていたのか。この神様問答だけにその秘密がある。それがなければ只の「不思議なファンタジ-体験」で、確かにそれだけでも充分魅力ある物語ではあるのですが…

そしてもう一つ。実はここに、とても印象な場面がある事に
ごく最近、初めて気づきました。(5/2)
自信溢れる一言で、神様談義にピリオドを打った青年家庭教師に、
なんとも得心できないまま、反論も出来ずうなだれたままのジョバンニは、
同じく後ろ髪引かれる思いでも、大人の言うままに次の駅で下りるつもりに
なってしまった束の間の隣人・タダシ君の左の二の腕あたりを、
去り難い思いを込めて、掴んでいます。指が爪が、
服の袖を通して腕に食い込みそうな位の、ジョバンニの離れたくない思いの
鷲掴みです。
原作には、一言もありませんが、あの宗教問答の連続線上にある
そしてその先のジョバンニの、言葉にならない「やるせない切なさ」を雄弁に物語る、
ほんの、さり気無い仕草です。これが演技、いえ、「役を生きる」という事なのでしょう。
原作ではない、セリフでもないのです。それなのに原作通りであり、その思いそのままに補って、よりこの場の情感を高めています。やがてその強く握り締めた手を、さり気無くまさにさり気無く、タダシ君はするりといなして、心残しつつも彼自身の神の元へと向かい、ジョバンニもあんなに強く握った手を力なく諦め、別の道へと心を移していく…この辺りのジョバンニの心理が、この「手」によって痛々しい程に伝わって来る場面です。これも「ノ-ヴィの奇跡」の一つに勘定しておきたいと思う、素敵な場面です。

 そしてもちろん、それらをしっかりと支えているのは、全体に行き渡った細かいリアリティです。どこか怪しげな程に、あっけらかんと単純素朴に見える鳥捕りをはじめとした乗客達、柔らかな外面の内には修羅を隠し持った子供達や大人達、その世界を形作る一人一人の存在感が、この透き通った物語を本物に見せています。それと、ナレ-ションです。時には、彼の心理を、時にはケンジの原文を、とても柔らかに語りかけるしなやかさにより、心地よくファンタジ-へといざなわれてゆく事ができるのです。
 ここでは、二つの例を中心にあげてみましたが、こうした小さな発見や驚きが、実は随所に密かに置かれている、それが「ノ-ヴィ」の芝居、ノ-ヴィの奇跡です。そして、それは30席の藤の椅子と横長の舞台という「奇跡の館」でこそ見つけられる星の砂です。

 もう残り少ないこのシ-ズンの締め括りに当たり、いささか、いわゆる「ネタバレ」になりそうですが、書き記してみました。舞台は一度限り、そしてその場その時限りで消えてしまうもの、その消え行く思いに心残しつつ、それが少しでも残る事を願いつつ、書いてみました。いきおい、高めな表現になってしまっているようですが。
出来ればもう一度、何度でも観てみたい、奇跡の「銀河鉄道の夜」です。
 そしていつまでも観ていたい、奇跡の劇場です。

★安東のアーカイブス

「奇跡のノ-ヴィ」・・・・
   5/2 「銀河鉄道の夜」 観劇私見

「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」
「だっておっ母さんも行ってらっしゃるしそれに神さまが仰っしゃるんだわ。」
「そんな神さまうその神さまだい。」
「あなたの神さまうその神さまよ。」
「そうじゃないよ。」
「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑いながら云いました。
「ぼくほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんとうのたった一人の神さまです。」
「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです。」
「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの神さまの前にわたくしたちとお会いになることを祈ります。」青年はつつましく両手を組みました。女の子もちょうどその通りにしました。みんなほんとうに別れが惜しそうでその顔いろも少し青ざめて見えました。ジョバンニはあぶなく声をあげて泣き出そうとしました。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

「見る度に新しい、見る毎に発見がある」
と言うのは決して、単なる美辞麗句でも誇張でもない、そんな実感を得た。

第四シ-ズンから新たなレパ-トリ-となった
「銀河鉄道の夜」。

初めは、素朴なロマン漂う味わいに満ちた影絵の夜汽車や、祭の夜の燈籠流し、
一人ぼっちの芒の原の象形から一転して、不規則に揺れて明滅する室内の
いかにも走る夜汽車らしい動きなど、鏤められたイルミネ-ション的な演出効果の
醸し出すファンタジックなム-ドと、不思議な出会いの心時めく旅の果てに、
遂には永久に離れ離れとなる友との別れの哀しさ、
叙情的で美しく切ないナレ-ションと、
少年達や大人達の役を生きるキャストの透明感溢れるひたむきさに、
ひたすら涙するだけだった。

だが、二度三度と繰り返して、違うキャストも交えて、回を重ねて観る内に
少しづつ見えて来たのは、ケンジの原作の深さと
それをそのままに、更に増幅して伝えようとするノ-ヴィの透徹した芝居作りの、真摯な思いでした。

何が、どうなるか、最初のドキドキ感は、回を重ねると薄れるその代わりに、
今度は、ドラマの本質に目がいくようになる。
アクセサリ-やデコレ-ションでなく、素顔が見えてくるんです。

パシフィックで難破した船の子供達との束の間の賑わいの後で交わされる冒頭の会話、それがはっきりと響いて聞こえて来るようになったのは、多分、もう5回目を過ぎた辺りからだったでしょうか。
それまで何度も同じ場面を観てきた筈なのに、きちんと観たつもりが、ある時、ふと、その会話の重さに気づいて、はっと驚きました。
その少し前には、急勾配を上り下るスペクタクルがあり、その後には、
白衣の神様へ向かう壮麗な場面がある、その間に挟み込まれた短い会話ですが
これは、重い。神学論争、宗教問答、哲学談義の重さです。

驚いて、後で原作を読み返したら、そっくりそのままのセリフなので尚、びっくり。
原作を読んだ時も、読み過ごしていたようです。そして原作はさりげなく、
それでも舞台では、何とも言えぬ苦悩を、少年ジョバンニは、どうしようもなく
やるせない煩悶に、言葉を噛み締める様がとても、心に響きました。

「お子様向けファンタジ-」と思われがちなこの作品に、
こんなに高い次元の会話が盛り込まれている、これは作者ケンジが常に己自身に
問い続け、その作品群の随所に盛り込まれた苦悩ですが、その事自体、文学史上、
希有な、そして素晴らしい事なのですが、その場面そのものをそのままに、そして
更に強調し深めた形で上演する、これこそ東京ノ-ヴィレパ-トリ-シアタ-の真骨頂
の一つの表れといっていいでしょう。
 これまで幾多の劇団が上演した中で、この会話の部分を、改変もカットもなしに、そのまま上演した例は、まずなかったのでは?と思えるような場面です。
これをそのままやり通したその勇気と知性に驚嘆します。通常は、もっと大衆的に、子供にも分かり易く、受け入れやすくするという理由で、表現が緩められたりするのが大方の所です。むしろこの原作の部分をどうするかで、その作品づくりの姿勢がわかるといっても良いかも知れません。
そういう意味では、そのまま原作通りに、しかも深めて表現したノ-ヴィのやり方は、これはある意味で「奇跡」です。ここをどう表現を変えるか、変える事でどれだけの観客を拡大できるか天秤にかける、あるいはかけざるを得ない(と思っている)制作者・演出家にとって、これをこのままやるという発想自体が、驚嘆すべきものだと思います。
 商業演劇、児童演劇、大衆劇というジャンルに携わる人々は、それぞれの頭二文字に反するものとして、この会話の難解さ、高度さ、ラジカルさ、問題意識を、実に困ったものだと扱いあぐねているのではないでしょうか。なんとかこのままでなしに、その思いをもっとわかりやすく、平安に伝えるすべはないだろうかと。このままではむずかし過ぎる、なんとかしなければ、と。それは一つのある種の良心として。
 しかしおそらく、原作者ケンジは、この会話にこそ拘わり、この表現にこそ命を賭けていたのではないでしょうか。ここを緩めたら、この不思議なそして難解なこの物語にこめた謎は、永遠に解けないままになるのではないでしょうか。何故、ジョバンニだけが一人でいかなければならないのか。何故彼だけが、この世から離れて行く人々と最後の旅をしたのか、何故彼だけが、どこまでも行けるキップを手にしていたのか。この神様問答だけにその秘密がある。それがなければ只の「不思議なファンタジ-体験」で、確かにそれだけでも充分魅力ある物語ではあるのですが…

そしてもう一つ。実はここに、とても印象な場面がある事に
ごく最近、初めて気づきました。(5/2)
自信溢れる一言で、神様談義にピリオドを打った青年家庭教師に、
なんとも得心できないまま、反論も出来ずうなだれたままのジョバンニは、
同じく後ろ髪引かれる思いでも、大人の言うままに次の駅で下りるつもりに
なってしまった束の間の隣人・タダシ君の左の二の腕あたりを、
去り難い思いを込めて、掴んでいます。指が爪が、
服の袖を通して腕に食い込みそうな位の、ジョバンニの離れたくない思いの
鷲掴みです。
原作には、一言もありませんが、あの宗教問答の連続線上にある
そしてその先のジョバンニの、言葉にならない「やるせない切なさ」を雄弁に物語る、
ほんの、さり気無い仕草です。これが演技、いえ、「役を生きる」という事なのでしょう。
原作ではない、セリフでもないのです。それなのに原作通りであり、その思いそのままに補って、よりこの場の情感を高めています。やがてその強く握り締めた手を、さり気無くまさにさり気無く、タダシ君はするりといなして、心残しつつも彼自身の神の元へと向かい、ジョバンニもあんなに強く握った手を力なく諦め、別の道へと心を移していく…この辺りのジョバンニの心理が、この「手」によって痛々しい程に伝わって来る場面です。これも「ノ-ヴィの奇跡」の一つに勘定しておきたいと思う、素敵な場面です。

 そしてもちろん、それらをしっかりと支えているのは、全体に行き渡った細かいリアリティです。どこか怪しげな程に、あっけらかんと単純素朴に見える鳥捕りをはじめとした乗客達、柔らかな外面の内には修羅を隠し持った子供達や大人達、その世界を形作る一人一人の存在感が、この透き通った物語を本物に見せています。それと、ナレ-ションです。時には、彼の心理を、時にはケンジの原文を、とても柔らかに語りかけるしなやかさにより、心地よくファンタジ-へといざなわれてゆく事ができるのです。
 ここでは、二つの例を中心にあげてみましたが、こうした小さな発見や驚きが、実は随所に密かに置かれている、それが「ノ-ヴィ」の芝居、ノ-ヴィの奇跡です。そして、それは30席の藤の椅子と横長の舞台という「奇跡の館」でこそ見つけられる星の砂です。

 もう残り少ないこのシ-ズンの締め括りに当たり、いささか、いわゆる「ネタバレ」になりそうですが、書き記してみました。舞台は一度限り、そしてその場その時限りで消えてしまうもの、その消え行く思いに心残しつつ、それが少しでも残る事を願いつつ、書いてみました。いきおい、高めな表現になってしまっているようですが。
出来ればもう一度、何度でも観てみたい、奇跡の「銀河鉄道の夜」です。
 そしていつまでも観ていたい、奇跡の劇場です。

スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。