スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

アーカイブス「曽根崎心中」

☆アーカイブス「曽根崎心中」観劇記録
(2009年1月)

「集中(凝縮)の美」
             1/18「曽根崎心中」  安東千枝穂 


 この「曽根崎心中」の初見は2007年5月、昨年のシーズンでも1~5月の間に数度観ているが、その度に、清冽なものがひしひしと伝わる思いがして毎回、新鮮な感動に包まれる。
 
日本の古典云々ということより何より、生と死に直面した二人の、一途な思い、その複雑で繊細、そして高貴な気高さを、近松の原作を用いながら、明確に、適確に表現していて、潔い美しさに溢れている。

 原作(浄瑠璃)は、至極シンプル(簡潔)だが、歌舞伎や劇化となると、徳兵衛の家族や縁談などを具体的に説明したり演じたりして長くなり、そのシンプルから遠ざかる傾向にある。
 が、この「東京ノーヴィ版」は、あくまで簡潔に、「九平次に騙されて死を覚悟した徳兵衛と、それに殉じるお初」という筋立ての、本筋のみに集中し、他の一切を切り捨てている。
いわゆる「集中(凝縮)の美」である。
 
その代りに、近松が物語作者として登場し、落語のような導入から、途中経過、そして二人が抜け出す「道行」を人形で演じるなど、その軽妙な語り口で、物語に明るさと、テンポを加え、うまく気分を分散させつつも、次の場面へに集中をも促す、見事な運び口調を披露している。

橋や竹、障子や灯りなどのシンプルな美術も、象徴的で簡潔で美しい。
永井一郎氏の、上方味溢れる語り口も渋く耳に心地よく、バッハのレクイエムのようなクラシック音楽も、見事にマッチして心に響く。

 飲み仲間や店の者達も登場して、当時の雰囲気を醸し出す中、ドラマは、三人に集中する。
見るからに実直純真な徳兵衛。悪辣な九平次。
二人は、お初をめぐる恋敵でもある。
九平次の手口に騙され、打ちちょうちゃくされる徳兵衛。
今も昔も、世界中どこでも変わらない力なき善人の不条理な悲劇が、明快に示されていてわかりやすい。
キャラクターが明確に演じ分けられて、ストンと肝に落ちる。

 徳の唯一の味方は、馴染みの遊女、お初。
泥血まみれの徳を、匿う。
むろん、お初とて、この世では、最下層の、自由ならぬ身の上。
発覚すれば、咎は逃れぬ。
しかし、お初は、共に死を覚悟し、言い寄る九平次を睨みつけ跳ねのけ、嘲笑う。
金持ちの大旦那に対して、何も持たぬ最下層の遊女の身分だが、お初には、信じる徳様と共に死を覚悟した誇りと矜持に満ちている。
その前には、いかに金があろうと身分があろうと、九平次ごときは相手ではない。
お初の九平次を見る目と、反対に徳様に向ける慈愛のまなざしとの、その使い分けが見事に心地よい。

人は、かくまで「境遇」や「身分」「貴賎」によらずして高貴を保ち続ける事ができるものかと。
 
そしてお初は、至福の笑顔を湛えつつ、死出の旅路に向かう。
何も持たない、しかも最高のものを手に入れたものだけが持つ至福の表情が、とても美しい。

だが、お初も、実はかよわい十九の娘、残していく父母を思っては涙にくれ、死ぬことへの不安と恐怖におののく繊細さもある。
その千変万化の表現、表情が、実にリアルにお初の内面を見せ、その分、それを超えた笑顔に、果てしない「救済」が輝きをみせる。

 潔く、潔く、この世を捨ててあの世へ向かう二人。
その姿は、どこか、信じるものに命をかけてこの舞台を続けている俳優達の姿に、重なって見え、輝くように美しい。

 前日に、この同じ舞台で「ハムレット」を観た。

昨年末に生まれたばかりの新作で、私は初日に続いて二回目。以前とは異なるキャストで、悪辣王クローディアスを演じていた俳優が、今日は近松を演じていた。
他にも多くのキャストが昨日今日を兼ねていた。
この劇団ならではの、実に驚きであり、楽しみでもある。

 昨日は英国演劇の粋、そして今日は日本古典の粋、共に「集中の美」に溢れ、心に迫る舞台となっていた。
なんとも贅沢な楽しみである。
五月まで続く更なる演目も、楽しみにしたい。






スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。