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「カモメ」・・・アーカイブス

「光と闇の重奏曲~東京ノーヴィレパートリーシアターの、
<かもめ>」
                    安東 千枝穂

 百年たった今も、なお別格の名作として、方々の劇場にかかる人気演目「かもめ」。
 それゆえ、いきおい、若手ホープがトレープレフを、
いぶし銀の中堅スターがトリゴーリンとなり、ニーナとアルカージナ、
二女優を間に、恋の鞘当を演じる「スター競演」が売り物になることが多い。
    
 そんな商業演劇の「かもめ」を見慣れた後で観た、
東京ノーヴィレパートリーシアターの「かもめ」は、
初め、いささか面喰い、違和感を感じつつも、
最後に納得のいく舞台となっていた。

 よくある、爽やかな好青年と、世なれた円熟の大人の小説家とはほど遠いイメージの、
ぶつぶつと不平ばかり並べ立てる陰鬱な気難しい顔のトレープレフと、
どこか垢ぬけしないくたびれた中年男のようなトリゴーリン。
 生活に疲れ、自分を持て余し、苛立ちを背負いきれないような二人の閉塞感が、
舞台を暗く重いものにしていた。
 見続けるうちに、それこそがまさに、当時のロシアの、チェホフの描きたかった
田舎暮らしの文化人たちの肖像なのだと思えてきた。
 そんなトレープレフだからこそ、自殺まがいを繰り返し、決闘を申し込み、
ニーナを追いかけストーカーまがいなことまでして、
そして遂にはピストル自殺するという終焉がよくわかった。
 どうもこれまで見てきた多くのトレープレフ君は、余りにも
屈託のない素敵な好青年過ぎて、その幕切れの死が意外な程、
明るく爽やかだったし、トリゴーリンも、あれ程にニーナを苦しませ、
トレープレフをも悩ませる不条理な存在には思えなかった。
 それがこれまで見てきた「かもめ」だった。
 ノーヴィの舞台は、息詰まるような人々の暗さがストレートに伝わってくるものになっていた。
トレープレフだけではない、マーシャも、ポリーナも、ソーリンやシャムラーエフも皆、
自分の夢を何一つかなえられないまま、現状に失望している。
一見、うまくいっているように見えるアルカージナやトリゴーリンも、
本質的に満たされてはいない。
 誰もがストレスを身にため込んでいる。

 同劇団の最新作「ハムレット」も同様に暗いトーンの芝居だが、その暗さは、微妙に違う。
「箍が外れてしまった時代、その世界で慾と狂気に翻弄される人々の悲劇」を描く
ハムレットでは、誰もが、それぞれの差異はありながらも、同じ恐怖に
戦慄しているように見える。
 夢見ることすら、夢の中でしか、かなわない時代の息詰まるような恐ろしさを
人々は生きている。いつも死が隣り合わせにあるような。
 対してロシアの片田舎で毎日を過ごす人々は、それぞれの夢を、
それぞれに抱きながらも、実現できない現実の中で悶え苦しみ悩む。
 どちらが苦しいか、比較は問題でない。当人にとっては、どちらも、
存在にかかわる命がけの問題だ。
 人は夢を失えば、生きていくのは難しいものなのだから。
 例えば土地管理人のシャムラーエフにとって極めて重要なのは、「馬」だ。
ニーナは「大女優に向かって、あんな馬のことなんかであんな口をきくなんて」と詰るが、
シャムラーエフにとっては、のらくら毎日を遊び暮らしている気まぐれと、
「馬」とでは、比較にならない位なのだ。彼の人生、彼の職分、彼の世界の中では、
大女優だろうが誰だろうが、できないことはできない、無茶は無茶なのだ。
それを通すというのなら、辞めさせてもうらうしかない。
彼の人生では彼自身が主人公なのだから。この場面が、ノーヴィの舞台では、実にいきいきと、
大切に演じられていて印象深い。
 ここで、唐突のようだが、思い出したことがある。この一月、
アートサロンで聴いた落語(「宮戸川」前編」演者は、この「かもめ」でも、ばあやを好演していた
山下さん)その熱演に引き込まれてつい聞き入ってしまった。かなり長編の前半途中までだったが、その中で、物語が激しく進んでいく、その流れとは全く別に、人物たちが自己主張をしはじめる。
自分自身の回想に入り込み、現実お構いなしで、自分の世界に浸ってしまう・・・落語国には
よく登場する妄想若旦那のような人たちだ。その暴走振りが実におかしかった。
物語の流れそのものとは、ほとんど関わりない個人的な思い、でも、当人にとっては、
今の目の前の現実よりももっと大切なものだったりする。
自分の人生では自身が主人公なのだから。そして、この世界を支えているのは、
まぎれもないそんな彼ら、その一人一人なのだ。世界を支え、物語を紡ぎだしているのは、
一握りの王侯貴族やスターではなくて、こういう、それぞれの思惑を人生を抱えもった、
たくさんの人々なのだ。名もない人々、いいや、それぞれに名前を持った人々なのだ。
その事を誰よりもよく知っていたのは、チェホフなのではないか。
 だからこそ、彼の作品の中には、まさにいきいきと生きた、当時のその世界の人々が
描きこまれている。そして、一人一人の中に、時代、歴史、世界が投影され反映されていると同時にまた、それにもかかわらず、一人ひとりが、そんな時代状況にかかわりなく、一人の生きた個人なのである。
 そして、誰もが主役として自分を生きる。そしてこの事を、チェホフ原作から確実に引き継ぎ、実現しているのが、アニシモフ率いる「ノーヴィ」なのだ。主役も脇役もない。誰もが主人公であり、それぞれの役を、人生を生きている。だからこそ、物語は弾み、世界は躍動する。かの「落語」も、「かもめ」
の舞台も、だからこそ、「ノーヴィ」のものは、特別な異彩を放ち輝いて見える。
 舞台は暗い。照明の数だけではない。あえて光を制限しながら、見せるところだけを見せる、「アニシモフ効果」だ。だれもが心の闇を抱えている。一見、満たされた成功者に見えるアルカージナも、トリゴーリンも実は、もっとも大切なところで満たされず、闇に覆われている。
 アルカージナは、食後のビンゴゲームを大して面白くないと言いながらも、暇つぶしにしながら、息子の小説をまだ、読む「暇がない」、という。その暇がみつからない限り、彼女も息子も、共に救われることなどないのではないか。トリゴーリンもあれ程、一時はニーナに傾きながらも、アルカージナに対しても含めて、本当に満たされた感情に恵まれることはない。マーシャたちについても言うまでもない。
 この世界は闇に満ち満ちている。ただ一人、光を感じているのは、ニーナだけだ。ノーヴィ、アニシモフ演出でよく使われる、小さな池、湖の照り返しの波紋が、真っ白いニーナのドレスに写って美しく眩しく輝く。極めてヴィジュアルに効果的な照明の工夫だ。ニーナは、売れっ子小説家に紹介されて、夢が近くに来ている幸福感に満ち足りている。まだ未来は知らない、けれど希望に輝く眩い将来の期待に胸躍らせている。そこに煌く陽光は、そんな前半の若いまっさらな彼女の幼い夢の始まりを美しく描き出している。だからこそ、後半の「転落」した彼女がいっそう痛々しく、それでも忘れられないトリゴーリンへの愛と、過去のものになってしまった湖の思い出への断絶がトレープレフを死へと駆りたててしまう。決してもう手の届かない光の彼方へと飛翔し、とびさってしまったかもめ-ニーナへの、もだしがたい思いの中で、彼自身は、もはや何の光も、希望も見えない暗闇だけしか見えなくなってしまったから。「かもめ」は、「光と闇の重奏曲」なのである。
                                
                    (1月25日)
この 「日常の心にさす光と影を生きる人々」を描いたチェホフの、繊細な陰影模様、その心理描写と群像が、とても懐かしく(このところ、シェイクスピア、近松、ケンジ作品が主流になりつつあるかのような、最近の中で)久々に、本来のノーヴィに戻ってきた感じで、「やはりチェホフはいいなあ、ノーヴィの
原点は、やはりここだなあ」と堪能しました。「ワーニャ」や「桜」「姉妹」も、とても楽しみです。

☆これは今年の一月に書かれたものを「アーカイブス」として再掲載するものです。
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