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最新ニュース「安東は見た!三人姉妹」素敵なヒロインたち

マーシャに扮したチェホフの妻・オリガ
<最新情報>書き下ろし
☆このところアーカイブスで過去の再録が多かった安東ですが、
これは、先日、5/15夜、見たばかりの書き下ろしのホットニュースです。
(写真は、マーシャに扮したチェホフの妻・オリガ)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


2,009年5月の東京ノーヴィレパートリーシアター
「三人姉妹」
~誰もがヒロイン、そしてアンチ・ヒロインたち~

「三人姉妹」は、「ワーニャ伯父さん」が、ワーニャその人だけが必ずしも主人公でないように、タイトル通りに三人姉妹だけがヒロインの物語ではない。

三人の姉妹に挟まれた不祥の兄弟アンドレイ、その嫁ナターシャは、その独特の存在感で、後の作「桜の園」のロパーヒンに繋がる「新世代の闖入者」として、四人目の「姉妹」として充分なヒロイン性を発揮している。が、子煩悩で人の思惑など気にしない自己中の彼女は、三人姉妹にとっては、とんでもない脅威の悪役=アンチヒロインである。しかしアンチヒロインという意味では、三人姉妹もそれぞれに、弱さ・短所・欠点を持ち、いま一つのところで観客をやきもきさせる。逆にいえばそれが、造られたステロタイプでなく、等身大の生身のリアリティを感じさせる。チェホフの面目たるところである。そしてもう一人、この家に仕える老婆アンフィーサ。もう働くのもやっとで首をきられかねない彼女も様々な場面で登場し、存在感を見せる大切なヒロインだ。「桜の園」でも「かもめ」でも、「ワーニャ」でも、同じく登場する老人達、チェホフ作品には、医者と並んで登場する老人達の存在・・・作者自身の身近にモデルがいたのか、当時もロシアには、高齢者雇用の問題が多発していたのか、あるいはチェホフが作家としての鋭い感性でこそ、それを先取りして誰よりも鋭敏に感じ取っていたのか・・・現代日本にも通じるこれら老人達の存在が、チェホフ作品に厚みを加えている。

そしてチェホフ作品では、誰もが主人公―

それを、ことに痛感できるのが、ノーヴィの舞台だ。

「三人姉妹」は、「かもめ」と並んで最もポピュラーなチェホフ作品で、年に二三度は観る。が、その大方は、劇団でも、プロデュース公演でも、看板女優が長女オーリガを、中堅の個性派が次女マーシャか、ナターシャを、そして新人若手がイリーナをという事になっていて、その為に、ひどく年の離れた、時には母子程に離れたバランスの悪い姉妹が出来上がる。年齢だけでなく、演技も、今やチェホフ作のヒロインといえば、新劇の頂点に位置する最高峰のキャリア女優でなければという通念があるようで、従ってイリーナとは、師匠と弟子ほどに格差の感じられるう程に違っていたりもする。そしてアンフィーサといえば、いかにも脇役何十年のキャリアをつんだ年季女優があてられたりする。

そんな大方の「三人姉妹」と違い,
ノーヴィの配役は、自然な均一さがあり、「誰もが主人公」そして「誰もが完璧でなく、短所も欠陥もある」等身大として観ることができた。「かもめ」も「桜の園」も名作として神格化され、ヒロインが高齢化する傾向がある一方で、こうしたノーヴィの姿勢は、一つの新鮮なルネッサンス、原作の見直しであると感じる。生身のチェホフと真正面から対面できる楽しみがある。とりわけ、「アンチヒロイン」としてのマーシャとナターシャの自己撞着ぶり、奔放さがいい。

かのチェホフの妻、オリガ・クニッペルが演じたという次女マーシャの、突然に豹変するかと思えば、ヴェルシーニンと「トランタン・・・」と交流したりするとらえどころのなさがよくあらわれていたし、ナターシャも初めはオドオドとした田舎娘が、後には女主人然として仕切り、そして少しも自分を悪いとは思っていない様が巧みに表現されていた。悪女然でなく、現実に居るような、小悪魔さがいい。

四大作中、前二作「かもめ」のニーナ、「ワーニャ」のソーニャの二人は純然たるヒロインとしての良さがあるが、その一方で、「かもめ」のマーシャ、アルカージナ、「ワーニャ」のエリーナら自己にこだわりのある、必ずしも理想的でない欠陥をもつ人物女性像が、この作で更に開花している。

ヒロインについてばかり書いたが、対する男性陣も、ヴェルシーニン、男爵、軍医はじめ、しっかりと受け止めている。
 
今シーズンは、「ハムレット」・日韓共同「水の記憶」・新生スタジオ「イワーノフ」と新作ラッシュのためもあってか、「三人姉妹」の上演は少なかった。それもあり、やや間延びしてセリフも、若干気になるところがあった。新たなイリーナを加えてのアンサンブル、更に今後に期待したい。       
 2009年5月15日
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アーカイブス「銀河鉄道の夜」の奇跡2008年

★安東のアーカイブス

「奇跡のノ-ヴィ」・・・・
   5/2 「銀河鉄道の夜」 観劇私見

「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」
「だっておっ母さんも行ってらっしゃるしそれに神さまが仰っしゃるんだわ。」
「そんな神さまうその神さまだい。」
「あなたの神さまうその神さまよ。」
「そうじゃないよ。」
「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑いながら云いました。
「ぼくほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんとうのたった一人の神さまです。」
「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです。」
「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの神さまの前にわたくしたちとお会いになることを祈ります。」青年はつつましく両手を組みました。女の子もちょうどその通りにしました。みんなほんとうに別れが惜しそうでその顔いろも少し青ざめて見えました。ジョバンニはあぶなく声をあげて泣き出そうとしました。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

「見る度に新しい、見る毎に発見がある」
と言うのは決して、単なる美辞麗句でも誇張でもない、そんな実感を得た。

第四シ-ズンから新たなレパ-トリ-となった
「銀河鉄道の夜」。

初めは、素朴なロマン漂う味わいに満ちた影絵の夜汽車や、祭の夜の燈籠流し、
一人ぼっちの芒の原の象形から一転して、不規則に揺れて明滅する室内の
いかにも走る夜汽車らしい動きなど、鏤められたイルミネ-ション的な演出効果の
醸し出すファンタジックなム-ドと、不思議な出会いの心時めく旅の果てに、
遂には永久に離れ離れとなる友との別れの哀しさ、
叙情的で美しく切ないナレ-ションと、
少年達や大人達の役を生きるキャストの透明感溢れるひたむきさに、
ひたすら涙するだけだった。

だが、二度三度と繰り返して、違うキャストも交えて、回を重ねて観る内に
少しづつ見えて来たのは、ケンジの原作の深さと
それをそのままに、更に増幅して伝えようとするノ-ヴィの透徹した芝居作りの、真摯な思いでした。

何が、どうなるか、最初のドキドキ感は、回を重ねると薄れるその代わりに、
今度は、ドラマの本質に目がいくようになる。
アクセサリ-やデコレ-ションでなく、素顔が見えてくるんです。

パシフィックで難破した船の子供達との束の間の賑わいの後で交わされる冒頭の会話、それがはっきりと響いて聞こえて来るようになったのは、多分、もう5回目を過ぎた辺りからだったでしょうか。
それまで何度も同じ場面を観てきた筈なのに、きちんと観たつもりが、ある時、ふと、その会話の重さに気づいて、はっと驚きました。
その少し前には、急勾配を上り下るスペクタクルがあり、その後には、
白衣の神様へ向かう壮麗な場面がある、その間に挟み込まれた短い会話ですが
これは、重い。神学論争、宗教問答、哲学談義の重さです。

驚いて、後で原作を読み返したら、そっくりそのままのセリフなので尚、びっくり。
原作を読んだ時も、読み過ごしていたようです。そして原作はさりげなく、
それでも舞台では、何とも言えぬ苦悩を、少年ジョバンニは、どうしようもなく
やるせない煩悶に、言葉を噛み締める様がとても、心に響きました。

「お子様向けファンタジ-」と思われがちなこの作品に、
こんなに高い次元の会話が盛り込まれている、これは作者ケンジが常に己自身に
問い続け、その作品群の随所に盛り込まれた苦悩ですが、その事自体、文学史上、
希有な、そして素晴らしい事なのですが、その場面そのものをそのままに、そして
更に強調し深めた形で上演する、これこそ東京ノ-ヴィレパ-トリ-シアタ-の真骨頂
の一つの表れといっていいでしょう。
 これまで幾多の劇団が上演した中で、この会話の部分を、改変もカットもなしに、そのまま上演した例は、まずなかったのでは?と思えるような場面です。
これをそのままやり通したその勇気と知性に驚嘆します。通常は、もっと大衆的に、子供にも分かり易く、受け入れやすくするという理由で、表現が緩められたりするのが大方の所です。むしろこの原作の部分をどうするかで、その作品づくりの姿勢がわかるといっても良いかも知れません。
そういう意味では、そのまま原作通りに、しかも深めて表現したノ-ヴィのやり方は、これはある意味で「奇跡」です。ここをどう表現を変えるか、変える事でどれだけの観客を拡大できるか天秤にかける、あるいはかけざるを得ない(と思っている)制作者・演出家にとって、これをこのままやるという発想自体が、驚嘆すべきものだと思います。
 商業演劇、児童演劇、大衆劇というジャンルに携わる人々は、それぞれの頭二文字に反するものとして、この会話の難解さ、高度さ、ラジカルさ、問題意識を、実に困ったものだと扱いあぐねているのではないでしょうか。なんとかこのままでなしに、その思いをもっとわかりやすく、平安に伝えるすべはないだろうかと。このままではむずかし過ぎる、なんとかしなければ、と。それは一つのある種の良心として。
 しかしおそらく、原作者ケンジは、この会話にこそ拘わり、この表現にこそ命を賭けていたのではないでしょうか。ここを緩めたら、この不思議なそして難解なこの物語にこめた謎は、永遠に解けないままになるのではないでしょうか。何故、ジョバンニだけが一人でいかなければならないのか。何故彼だけが、この世から離れて行く人々と最後の旅をしたのか、何故彼だけが、どこまでも行けるキップを手にしていたのか。この神様問答だけにその秘密がある。それがなければ只の「不思議なファンタジ-体験」で、確かにそれだけでも充分魅力ある物語ではあるのですが…

そしてもう一つ。実はここに、とても印象な場面がある事に
ごく最近、初めて気づきました。(5/2)
自信溢れる一言で、神様談義にピリオドを打った青年家庭教師に、
なんとも得心できないまま、反論も出来ずうなだれたままのジョバンニは、
同じく後ろ髪引かれる思いでも、大人の言うままに次の駅で下りるつもりに
なってしまった束の間の隣人・タダシ君の左の二の腕あたりを、
去り難い思いを込めて、掴んでいます。指が爪が、
服の袖を通して腕に食い込みそうな位の、ジョバンニの離れたくない思いの
鷲掴みです。
原作には、一言もありませんが、あの宗教問答の連続線上にある
そしてその先のジョバンニの、言葉にならない「やるせない切なさ」を雄弁に物語る、
ほんの、さり気無い仕草です。これが演技、いえ、「役を生きる」という事なのでしょう。
原作ではない、セリフでもないのです。それなのに原作通りであり、その思いそのままに補って、よりこの場の情感を高めています。やがてその強く握り締めた手を、さり気無くまさにさり気無く、タダシ君はするりといなして、心残しつつも彼自身の神の元へと向かい、ジョバンニもあんなに強く握った手を力なく諦め、別の道へと心を移していく…この辺りのジョバンニの心理が、この「手」によって痛々しい程に伝わって来る場面です。これも「ノ-ヴィの奇跡」の一つに勘定しておきたいと思う、素敵な場面です。

 そしてもちろん、それらをしっかりと支えているのは、全体に行き渡った細かいリアリティです。どこか怪しげな程に、あっけらかんと単純素朴に見える鳥捕りをはじめとした乗客達、柔らかな外面の内には修羅を隠し持った子供達や大人達、その世界を形作る一人一人の存在感が、この透き通った物語を本物に見せています。それと、ナレ-ションです。時には、彼の心理を、時にはケンジの原文を、とても柔らかに語りかけるしなやかさにより、心地よくファンタジ-へといざなわれてゆく事ができるのです。
 ここでは、二つの例を中心にあげてみましたが、こうした小さな発見や驚きが、実は随所に密かに置かれている、それが「ノ-ヴィ」の芝居、ノ-ヴィの奇跡です。そして、それは30席の藤の椅子と横長の舞台という「奇跡の館」でこそ見つけられる星の砂です。

 もう残り少ないこのシ-ズンの締め括りに当たり、いささか、いわゆる「ネタバレ」になりそうですが、書き記してみました。舞台は一度限り、そしてその場その時限りで消えてしまうもの、その消え行く思いに心残しつつ、それが少しでも残る事を願いつつ、書いてみました。いきおい、高めな表現になってしまっているようですが。
出来ればもう一度、何度でも観てみたい、奇跡の「銀河鉄道の夜」です。
 そしていつまでも観ていたい、奇跡の劇場です。

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アーカイブス「曽根崎心中」

☆アーカイブス「曽根崎心中」観劇記録
(2009年1月)

「集中(凝縮)の美」
             1/18「曽根崎心中」  安東千枝穂 


 この「曽根崎心中」の初見は2007年5月、昨年のシーズンでも1~5月の間に数度観ているが、その度に、清冽なものがひしひしと伝わる思いがして毎回、新鮮な感動に包まれる。
 
日本の古典云々ということより何より、生と死に直面した二人の、一途な思い、その複雑で繊細、そして高貴な気高さを、近松の原作を用いながら、明確に、適確に表現していて、潔い美しさに溢れている。

 原作(浄瑠璃)は、至極シンプル(簡潔)だが、歌舞伎や劇化となると、徳兵衛の家族や縁談などを具体的に説明したり演じたりして長くなり、そのシンプルから遠ざかる傾向にある。
 が、この「東京ノーヴィ版」は、あくまで簡潔に、「九平次に騙されて死を覚悟した徳兵衛と、それに殉じるお初」という筋立ての、本筋のみに集中し、他の一切を切り捨てている。
いわゆる「集中(凝縮)の美」である。
 
その代りに、近松が物語作者として登場し、落語のような導入から、途中経過、そして二人が抜け出す「道行」を人形で演じるなど、その軽妙な語り口で、物語に明るさと、テンポを加え、うまく気分を分散させつつも、次の場面へに集中をも促す、見事な運び口調を披露している。

橋や竹、障子や灯りなどのシンプルな美術も、象徴的で簡潔で美しい。
永井一郎氏の、上方味溢れる語り口も渋く耳に心地よく、バッハのレクイエムのようなクラシック音楽も、見事にマッチして心に響く。

 飲み仲間や店の者達も登場して、当時の雰囲気を醸し出す中、ドラマは、三人に集中する。
見るからに実直純真な徳兵衛。悪辣な九平次。
二人は、お初をめぐる恋敵でもある。
九平次の手口に騙され、打ちちょうちゃくされる徳兵衛。
今も昔も、世界中どこでも変わらない力なき善人の不条理な悲劇が、明快に示されていてわかりやすい。
キャラクターが明確に演じ分けられて、ストンと肝に落ちる。

 徳の唯一の味方は、馴染みの遊女、お初。
泥血まみれの徳を、匿う。
むろん、お初とて、この世では、最下層の、自由ならぬ身の上。
発覚すれば、咎は逃れぬ。
しかし、お初は、共に死を覚悟し、言い寄る九平次を睨みつけ跳ねのけ、嘲笑う。
金持ちの大旦那に対して、何も持たぬ最下層の遊女の身分だが、お初には、信じる徳様と共に死を覚悟した誇りと矜持に満ちている。
その前には、いかに金があろうと身分があろうと、九平次ごときは相手ではない。
お初の九平次を見る目と、反対に徳様に向ける慈愛のまなざしとの、その使い分けが見事に心地よい。

人は、かくまで「境遇」や「身分」「貴賎」によらずして高貴を保ち続ける事ができるものかと。
 
そしてお初は、至福の笑顔を湛えつつ、死出の旅路に向かう。
何も持たない、しかも最高のものを手に入れたものだけが持つ至福の表情が、とても美しい。

だが、お初も、実はかよわい十九の娘、残していく父母を思っては涙にくれ、死ぬことへの不安と恐怖におののく繊細さもある。
その千変万化の表現、表情が、実にリアルにお初の内面を見せ、その分、それを超えた笑顔に、果てしない「救済」が輝きをみせる。

 潔く、潔く、この世を捨ててあの世へ向かう二人。
その姿は、どこか、信じるものに命をかけてこの舞台を続けている俳優達の姿に、重なって見え、輝くように美しい。

 前日に、この同じ舞台で「ハムレット」を観た。

昨年末に生まれたばかりの新作で、私は初日に続いて二回目。以前とは異なるキャストで、悪辣王クローディアスを演じていた俳優が、今日は近松を演じていた。
他にも多くのキャストが昨日今日を兼ねていた。
この劇団ならではの、実に驚きであり、楽しみでもある。

 昨日は英国演劇の粋、そして今日は日本古典の粋、共に「集中の美」に溢れ、心に迫る舞台となっていた。
なんとも贅沢な楽しみである。
五月まで続く更なる演目も、楽しみにしたい。






「カモメ」・・・アーカイブス

「光と闇の重奏曲~東京ノーヴィレパートリーシアターの、
<かもめ>」
                    安東 千枝穂

 百年たった今も、なお別格の名作として、方々の劇場にかかる人気演目「かもめ」。
 それゆえ、いきおい、若手ホープがトレープレフを、
いぶし銀の中堅スターがトリゴーリンとなり、ニーナとアルカージナ、
二女優を間に、恋の鞘当を演じる「スター競演」が売り物になることが多い。
    
 そんな商業演劇の「かもめ」を見慣れた後で観た、
東京ノーヴィレパートリーシアターの「かもめ」は、
初め、いささか面喰い、違和感を感じつつも、
最後に納得のいく舞台となっていた。

 よくある、爽やかな好青年と、世なれた円熟の大人の小説家とはほど遠いイメージの、
ぶつぶつと不平ばかり並べ立てる陰鬱な気難しい顔のトレープレフと、
どこか垢ぬけしないくたびれた中年男のようなトリゴーリン。
 生活に疲れ、自分を持て余し、苛立ちを背負いきれないような二人の閉塞感が、
舞台を暗く重いものにしていた。
 見続けるうちに、それこそがまさに、当時のロシアの、チェホフの描きたかった
田舎暮らしの文化人たちの肖像なのだと思えてきた。
 そんなトレープレフだからこそ、自殺まがいを繰り返し、決闘を申し込み、
ニーナを追いかけストーカーまがいなことまでして、
そして遂にはピストル自殺するという終焉がよくわかった。
 どうもこれまで見てきた多くのトレープレフ君は、余りにも
屈託のない素敵な好青年過ぎて、その幕切れの死が意外な程、
明るく爽やかだったし、トリゴーリンも、あれ程にニーナを苦しませ、
トレープレフをも悩ませる不条理な存在には思えなかった。
 それがこれまで見てきた「かもめ」だった。
 ノーヴィの舞台は、息詰まるような人々の暗さがストレートに伝わってくるものになっていた。
トレープレフだけではない、マーシャも、ポリーナも、ソーリンやシャムラーエフも皆、
自分の夢を何一つかなえられないまま、現状に失望している。
一見、うまくいっているように見えるアルカージナやトリゴーリンも、
本質的に満たされてはいない。
 誰もがストレスを身にため込んでいる。

 同劇団の最新作「ハムレット」も同様に暗いトーンの芝居だが、その暗さは、微妙に違う。
「箍が外れてしまった時代、その世界で慾と狂気に翻弄される人々の悲劇」を描く
ハムレットでは、誰もが、それぞれの差異はありながらも、同じ恐怖に
戦慄しているように見える。
 夢見ることすら、夢の中でしか、かなわない時代の息詰まるような恐ろしさを
人々は生きている。いつも死が隣り合わせにあるような。
 対してロシアの片田舎で毎日を過ごす人々は、それぞれの夢を、
それぞれに抱きながらも、実現できない現実の中で悶え苦しみ悩む。
 どちらが苦しいか、比較は問題でない。当人にとっては、どちらも、
存在にかかわる命がけの問題だ。
 人は夢を失えば、生きていくのは難しいものなのだから。
 例えば土地管理人のシャムラーエフにとって極めて重要なのは、「馬」だ。
ニーナは「大女優に向かって、あんな馬のことなんかであんな口をきくなんて」と詰るが、
シャムラーエフにとっては、のらくら毎日を遊び暮らしている気まぐれと、
「馬」とでは、比較にならない位なのだ。彼の人生、彼の職分、彼の世界の中では、
大女優だろうが誰だろうが、できないことはできない、無茶は無茶なのだ。
それを通すというのなら、辞めさせてもうらうしかない。
彼の人生では彼自身が主人公なのだから。この場面が、ノーヴィの舞台では、実にいきいきと、
大切に演じられていて印象深い。
 ここで、唐突のようだが、思い出したことがある。この一月、
アートサロンで聴いた落語(「宮戸川」前編」演者は、この「かもめ」でも、ばあやを好演していた
山下さん)その熱演に引き込まれてつい聞き入ってしまった。かなり長編の前半途中までだったが、その中で、物語が激しく進んでいく、その流れとは全く別に、人物たちが自己主張をしはじめる。
自分自身の回想に入り込み、現実お構いなしで、自分の世界に浸ってしまう・・・落語国には
よく登場する妄想若旦那のような人たちだ。その暴走振りが実におかしかった。
物語の流れそのものとは、ほとんど関わりない個人的な思い、でも、当人にとっては、
今の目の前の現実よりももっと大切なものだったりする。
自分の人生では自身が主人公なのだから。そして、この世界を支えているのは、
まぎれもないそんな彼ら、その一人一人なのだ。世界を支え、物語を紡ぎだしているのは、
一握りの王侯貴族やスターではなくて、こういう、それぞれの思惑を人生を抱えもった、
たくさんの人々なのだ。名もない人々、いいや、それぞれに名前を持った人々なのだ。
その事を誰よりもよく知っていたのは、チェホフなのではないか。
 だからこそ、彼の作品の中には、まさにいきいきと生きた、当時のその世界の人々が
描きこまれている。そして、一人一人の中に、時代、歴史、世界が投影され反映されていると同時にまた、それにもかかわらず、一人ひとりが、そんな時代状況にかかわりなく、一人の生きた個人なのである。
 そして、誰もが主役として自分を生きる。そしてこの事を、チェホフ原作から確実に引き継ぎ、実現しているのが、アニシモフ率いる「ノーヴィ」なのだ。主役も脇役もない。誰もが主人公であり、それぞれの役を、人生を生きている。だからこそ、物語は弾み、世界は躍動する。かの「落語」も、「かもめ」
の舞台も、だからこそ、「ノーヴィ」のものは、特別な異彩を放ち輝いて見える。
 舞台は暗い。照明の数だけではない。あえて光を制限しながら、見せるところだけを見せる、「アニシモフ効果」だ。だれもが心の闇を抱えている。一見、満たされた成功者に見えるアルカージナも、トリゴーリンも実は、もっとも大切なところで満たされず、闇に覆われている。
 アルカージナは、食後のビンゴゲームを大して面白くないと言いながらも、暇つぶしにしながら、息子の小説をまだ、読む「暇がない」、という。その暇がみつからない限り、彼女も息子も、共に救われることなどないのではないか。トリゴーリンもあれ程、一時はニーナに傾きながらも、アルカージナに対しても含めて、本当に満たされた感情に恵まれることはない。マーシャたちについても言うまでもない。
 この世界は闇に満ち満ちている。ただ一人、光を感じているのは、ニーナだけだ。ノーヴィ、アニシモフ演出でよく使われる、小さな池、湖の照り返しの波紋が、真っ白いニーナのドレスに写って美しく眩しく輝く。極めてヴィジュアルに効果的な照明の工夫だ。ニーナは、売れっ子小説家に紹介されて、夢が近くに来ている幸福感に満ち足りている。まだ未来は知らない、けれど希望に輝く眩い将来の期待に胸躍らせている。そこに煌く陽光は、そんな前半の若いまっさらな彼女の幼い夢の始まりを美しく描き出している。だからこそ、後半の「転落」した彼女がいっそう痛々しく、それでも忘れられないトリゴーリンへの愛と、過去のものになってしまった湖の思い出への断絶がトレープレフを死へと駆りたててしまう。決してもう手の届かない光の彼方へと飛翔し、とびさってしまったかもめ-ニーナへの、もだしがたい思いの中で、彼自身は、もはや何の光も、希望も見えない暗闇だけしか見えなくなってしまったから。「かもめ」は、「光と闇の重奏曲」なのである。
                                
                    (1月25日)
この 「日常の心にさす光と影を生きる人々」を描いたチェホフの、繊細な陰影模様、その心理描写と群像が、とても懐かしく(このところ、シェイクスピア、近松、ケンジ作品が主流になりつつあるかのような、最近の中で)久々に、本来のノーヴィに戻ってきた感じで、「やはりチェホフはいいなあ、ノーヴィの
原点は、やはりここだなあ」と堪能しました。「ワーニャ」や「桜」「姉妹」も、とても楽しみです。

☆これは今年の一月に書かれたものを「アーカイブス」として再掲載するものです。

「水の記憶」

清冽なドラマ・・・「発言」する女性像
4月2日の「水の記憶」                  <安東 千枝穂>

 初めて見るノーヴィの現代劇は、いつもより明るめの照明で、散り敷いた落ち葉と、
並ぶ木々から、清冽な高山の空気が漂ってくるような、新鮮さに満ちていた。

 人里離れた韓国の山奥、ダムに近い湖の畔の山荘、そこに、血の繋がらないおじさんと二人で暮らすチェリンの静かで平穏な日常の笑顔からドラマは幕をあける。ソーニャやお初、ジョバンニなどで陰影の濃い悲しみをくっきりと演じてきた三浦が、ここでは、平凡で屈託のない二十歳直前の山の娘として、実にナチュラルにいきいきと生きている。その山の娘チェリンが、旅してきた男と祖父とおじさん、そして過去、ダムに沈んだ村とそこに起きた愛憎の事件、母親と父のこと、その真相を突きつけられ、「私って何?」という疑問を叩きつけるように叫ぶクライマックスを経て、ドラマは終局に向かっていく。
 この物語を、娘の視点を中心に描いているところが、実にいい。これまで歴史の中で沈黙を余儀なくされて来た幾多の女性たちー彼女の母親もまた、人知れず父親さえ知らうちにチェリンを生み、そして誰にも看取られずにこの世をあとにしたーその母親の真実を知らされた娘は、叫ぶ。その叫びは、彼女一個人を越えて、これまで歴史の中で埋められてきた女性達の声のようだ。
 百年後には・・・と未来に夢を託した「三人姉妹」や、忍耐して生き続ける事を、噛みしめるように言い続けて来たニーナやソーニャ、チェーホフのヒロインたちに繋がる百年後の現代女性が、ここにいる。前半の明るさとの対比がくっきりと描き出されて鮮明な印象がいい。ラストシーンも明るい。

 ただ、一つ残念なのは、この母親像がいま一つ明確に見えてこないこと、来訪者により意外な過去が暴きだされるという、イプセン的な、あるいは、「能」のような物語構造で、最大の鍵となる、過去の事件が、三人の口から語られるものの、どんな形で、父の前に母が立ち、どんな思いで、どんな言葉で中に入ったか、その大事な場面が、具体的に思い浮かびにくい。
 回想場面で再現されていれば、より鮮明に、三人の関係が浮かび上がってくるのではないかとも思った。
 細かく言えば、旅して来た彼が、その村の祀りについて全く知らずに釣りをしていたのか、死んだと思ったにしても、全く、その後の村のこと、娘のことも全く知らなかったのかなどの疑問もある。また、彼女に贈った「本」はどんな本だったのか(見た目は明らかに「チェホフ全集」)、それがどうにかドラマに関わってくるのかと思ったが、何もなく、娘もそこにはそれ程の関心もないように見える。翻訳についても意味がありそうで、或いは彼自身が翻訳家?とも考えたが、それも特になく。全体に意味がありそうな伏線を求め過ぎる見方のせいか?
 
 そういう細かいところをのぞけば、前半の「静」から一転してクライマックスへなだれ込む激白の急展開は、祖父と男達の熱演とあいまって、社会と人生を一場に凝縮した迫力に満ち溢れていた。いつもは、ロシアや近松、ケンジ、シェイクスピアの古典劇を演じるノーヴィの俳優たちが、韓国の現代劇作家演出家と組んで新作を生みだす、とても刺激的な舞台、そして素敵な企画であった。
 
 つい先日、両国で行われた「国際シンポジウム」といい、そしてこの後の「イワーノフ」といい、まさに新星ノーヴァの輝きと勢いを感じさせる東京ノーヴィ、これからがますます楽しみである。

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